倉光成紀先生のご紹介
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― 倉光先生が理系・生物系に興味を持ったきっかけを教えてください。
それは小学校の頃ですかね。父方の祖父が村医者でした。当時はすでに亡くなっていましたが、
祖父の家には二畳ぐらいの狭い部屋があって、薬瓶がまだ並んでいました。その雰囲気が、祖父が
お医者さんをしていたときの薬の部屋だったのだろうと思ったのを、今でもうっすら覚えていますね。
その頃には、パスツール、コッホとかの、子供用の医学系の伝記物を読んでいましたが、その影響も
あって、「基礎医学は、多くの患者さんに役立つ研究ができる」と思うようになりました。
今の人と違って小学校の時は、勉強はしなかったですね。小学校5年生の時に、「最近、転校してきた
子は、先生がテストっていうと勉強するらしいよ」って私が言っていたと、親が笑っていました。
昔は日が暮れるまで遊んでいました。野球をするにも、新聞を丸めたようなものをバットにして、
人数が集まらなくてもそのたびにルールを自分たちで作って、工夫して遊んでいました。
あとは、理系に進んだという意味では、父親の影響が大きいかもしれません。親はポンプを作る会社に
勤めていましたので、例えば会社に行って仕事が終わるまで作業小屋のようなところで待っていると、
ちらっと遠くから大きなクレーンが見えていて、そういうものに馴染んでいたということもあるかも
しれないですね。
また、父親が海外出張の準備のために英語を勉強するというので、親が会社から帰ってから、夕食後の
夜19時か20時頃から始まる教会の英会話スクールに一緒に行きました。一緒に行っても、私は英語が
何も分からないので、横で座っているだけでしたが – – 。また当時は今のようなたくさんのコンテンツは
無い時代ですから、字幕スーパー付き(ほんとうは字幕が無い方が良いのですが、そのような映画は
ほとんど無いようでした)の洋画を利用していたようです。そのために、親の仕事が終わるのを会社で
待ち合わせて、一緒に梅田の映画館へ行きました。たとえば「老人と海」という映画は、何回も観に
行ったのを覚えています。親は「なるべく字幕を見ないようにして、英語を聴こう」と思っていたよう
ですが、映画が終わるたびに「また、映画の筋を見てしまった!」と反省していました。
海外出張は一ヶ月から半年間位の期間が数回ありましたが、出張から帰る度に、家庭でスライド映写を
してくれましたので、海外の様子を知る楽しい機会となりました。
それらを含めて、理系に馴染んだのかもしれません。
次回は中高生時代のお話を伺います。